●ブログ開始のご挨拶 ― 2015/06/02 02:50
「星爺から若人へ」は中学生くらいを対象としています。余名いくばくもないかもしれない爺さんからの若人へ向けたメッセージです。
●天体望遠鏡作りの経験だけは長いです
小学校に上る前に拾ったレンズで望遠鏡を作ったので経験だけは60年近いです。東京下町の水道もない農家の離れに一家が間借りしていた頃、父はプロの作詞家だった(16歳からだったらしい)のですが、要するにプー太郎でレコード会社の専属作家になるまでは、家族が栄養失調になるほどの赤貧洗うがごとき生活でした。
オモチャなど買ってもらったことのない6歳の星爺は、近所の大規模な産業廃棄物捨場で地場産業のオモチャのゴミを拾って遊んでいました。ある日、そのゴミ捨て場に自分の背丈以上の「レンズの山」が出現しました。レンズの山は一週間に一度くらい増えて行きました。オペラグラスのレンズがほとんどで、ケルナーの後玉、たまにケルナーの前玉やエルフレらしきレンズ、三枚合せ対物レンズや研磨途中のレンズなども捨ててありました。もちろんケルナー云々は何年も経ってから知ったことです。
レンズを「おはじき」代わりにして遊んでいたおバカな子供でも、それを拡大鏡や望遠鏡にするのは時間の問題でした。ガリレオ式望遠鏡を皮切りに、小学1年生の絵日記に「逆さまに見える望遠鏡を作った。逆さま(ケプラー式ですね)のほうが良く見える」と書いた覚えがあります。
小学生になると図書館で誠文堂新光社の『光学模型の作り方』(田口武二郎)や『光学の知識と工作』(海保洋司)を見つけて光学系の工作マニアになりました。「このような本を出版するとは、なんて素晴らしい出版社だろう!」と思ったことが、後に同社に就職するきっかけになったのかもしれません。
●天体望遠鏡作りの経験だけは長いです
小学校に上る前に拾ったレンズで望遠鏡を作ったので経験だけは60年近いです。東京下町の水道もない農家の離れに一家が間借りしていた頃、父はプロの作詞家だった(16歳からだったらしい)のですが、要するにプー太郎でレコード会社の専属作家になるまでは、家族が栄養失調になるほどの赤貧洗うがごとき生活でした。
オモチャなど買ってもらったことのない6歳の星爺は、近所の大規模な産業廃棄物捨場で地場産業のオモチャのゴミを拾って遊んでいました。ある日、そのゴミ捨て場に自分の背丈以上の「レンズの山」が出現しました。レンズの山は一週間に一度くらい増えて行きました。オペラグラスのレンズがほとんどで、ケルナーの後玉、たまにケルナーの前玉やエルフレらしきレンズ、三枚合せ対物レンズや研磨途中のレンズなども捨ててありました。もちろんケルナー云々は何年も経ってから知ったことです。
レンズを「おはじき」代わりにして遊んでいたおバカな子供でも、それを拡大鏡や望遠鏡にするのは時間の問題でした。ガリレオ式望遠鏡を皮切りに、小学1年生の絵日記に「逆さまに見える望遠鏡を作った。逆さま(ケプラー式ですね)のほうが良く見える」と書いた覚えがあります。
小学生になると図書館で誠文堂新光社の『光学模型の作り方』(田口武二郎)や『光学の知識と工作』(海保洋司)を見つけて光学系の工作マニアになりました。「このような本を出版するとは、なんて素晴らしい出版社だろう!」と思ったことが、後に同社に就職するきっかけになったのかもしれません。

写真は左からケルナーの後玉で作ったボール紙を巻いたアイピース、口径4cm F20アクロマート対物レンズ、アニーというメーカーの50mm F8単玉カメラレンズです。こんなガラクタを捨てられずに50年以上も保管しています。

東京オリンピック前年の5年生の時には単レンズの5cm F16で天体望遠鏡を作りました。木製の経緯台で三脚は竹で作りました(上の写真)。
翌年には上の写真の4cmアクロマートでタンジェントスクリュー微動式のドイツ式赤道儀を作りました(バックに亡くなった母の後ろ姿が写っています)。貧乏を絵に描いたような写真ですね(笑)
翌年には上の写真の4cmアクロマートでタンジェントスクリュー微動式のドイツ式赤道儀を作りました(バックに亡くなった母の後ろ姿が写っています)。貧乏を絵に描いたような写真ですね(笑)

こんな感じで、その後も天文雑誌の編集部に30年勤めるなど天文/望遠鏡三昧の人生を送ってしまったことは、もったいなかったとも良かったとも思う複雑な心境です。早期退職をして10年経っているので知識も錆びついていますが、若い人たちに少しでも望遠鏡の知識を伝承できたらと思います。
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●ポータブル赤道儀という用語 ― 2015/06/02 04:39
「星爺から若人へ」は中学生くらいを対象としています。
●Wikipediaなどに「ポータブル赤道儀の定義はこうである」と書いてあるのを見たりすると、星爺はなんともくすぐったく、また少し悲しくもなります。
●Wikipediaなどに「ポータブル赤道儀の定義はこうである」と書いてあるのを見たりすると、星爺はなんともくすぐったく、また少し悲しくもなります。

中学2年生のときに、写真のような写真撮影用の簡易赤道儀を作りました。『天文ガイド』創刊2号めの「読者の天体写真」に入選した同級生のT君が指物師の息子で、彼からもらった木材で作った、いわゆる「ポータブル赤道儀」です。タンジェントスクリュー式の部分微動装置で極軸にはベアリングを入れてありました。
この赤道儀には「写真撮影用赤道儀」とか「ZEUS ゼウス」とか命名して愛用していました。市販の赤道儀にカメラを載せて手動ガイド撮影するよりも圧倒的に使いやすかったです。
その後の1967年に九州大分の理科の先生Fさんが、帯鉄材を曲げて作った同じような自作赤道儀を発明されて、製作記事を『天文と気象』(後の月刊天文。現在は休刊)に投稿されました。その記事のタイトルが「ポータブル赤道儀」だったのです。
生意気盛りの星爺は、負けじとライバル誌の『天文ガイド』に投稿したのですが、記事のタイトルを「写真撮影用赤道儀」にするか「全知全能の神 ZEUS」にするか父に相談したところ、自分が先に考えたにせよ優秀であるにせよ「作品は先に世に出した人が偉い。先達を尊敬して同じ名称にすべき」と叱られて「ポータブル赤道儀の自作」というタイトルで投稿しました。掲載されたのは1年後の1968年8月号で、その後20年ほど続いた「読者の工作レポート」シリーズの1回めになりました。
この赤道儀には「写真撮影用赤道儀」とか「ZEUS ゼウス」とか命名して愛用していました。市販の赤道儀にカメラを載せて手動ガイド撮影するよりも圧倒的に使いやすかったです。
その後の1967年に九州大分の理科の先生Fさんが、帯鉄材を曲げて作った同じような自作赤道儀を発明されて、製作記事を『天文と気象』(後の月刊天文。現在は休刊)に投稿されました。その記事のタイトルが「ポータブル赤道儀」だったのです。
生意気盛りの星爺は、負けじとライバル誌の『天文ガイド』に投稿したのですが、記事のタイトルを「写真撮影用赤道儀」にするか「全知全能の神 ZEUS」にするか父に相談したところ、自分が先に考えたにせよ優秀であるにせよ「作品は先に世に出した人が偉い。先達を尊敬して同じ名称にすべき」と叱られて「ポータブル赤道儀の自作」というタイトルで投稿しました。掲載されたのは1年後の1968年8月号で、その後20年ほど続いた「読者の工作レポート」シリーズの1回めになりました。

『天文ガイド』の記事は反響が大きかったようで、3年後に『天体望遠鏡の自作ガイド』という別冊に、自動ガイドのポータブル赤道儀の作り方の執筆を依頼されました(上の写真。当時18歳--笑)。
それが縁で誠文堂新光社の天文ガイド編集部に就職したら、最初に命じられた仕事が『ポータブル赤道儀の作り方』という別冊の編集でした。この類の本はよほど売れたのでしょう。
それが縁で誠文堂新光社の天文ガイド編集部に就職したら、最初に命じられた仕事が『ポータブル赤道儀の作り方』という別冊の編集でした。この類の本はよほど売れたのでしょう。
この頃にはポータブル赤道儀(略してポタセキ)の名称は天文ファンに周知されて独り歩きを始め、小型の簡易赤道儀や間に合わせの自作赤道儀のことと思われていたようでした。

星爺は最初の自作から50年後にポータブル赤道儀を製作・販売するようになるとは想像もしていませんでしたが、ポータブル赤道儀(と呼ばれる機材)こそ天体写真用の本式の機材であり、ふつうの赤道儀にカメラを載せる方が間に合わせの便法であると確信して設計しています。ちゃんと撮れても撮れなくても良い、お気軽撮影用のサブの赤道儀がポタ赤とは決して思っていません。
やはり半世紀前の投稿は「ポータブル赤道儀」でなく「写真撮影用赤道儀」にすべきだったかな?
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